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Posted by チェスト at

2012年11月30日

自分がどうあるか?

色々と思うんですけどね、けど、思う事に耳を貸していたってどうしようもないのでほったらかしなんですが(苦笑

衆議院も解散して、一体日本という国はどのようになっていくんだろうかって、そんな事を思う人も多いと思うんですよ。
憂いますよね。
どうにかしたい、と思う人も多いかもしれませんね。


けどね


究極の所を言ってしまえばですね・・・・・




自分も救えない奴に国が救えるかっつーの!!



あれですよ、人を幸せにしたいならまずは自分が幸せでないと無理でしょうがっ!!
って言う事と同じなんですけど。
ちなみにですね、誰かに幸せにしてもらおうとか思うじゃないですか。言葉にするとちょいとやらしい感じだけど(苦笑)、だけど、普通に、恋人がいて、家族がいて、何かがあってそれを幸せという、みたいなね。
それって結構デフォルトだと思うんですけど、それって根本的におかしいんです。


だってさ、もし、そうやって幸せに条件を付けるんだったら

それがなかった自分は不幸だって定めるのと同じですよ?



幸せとそれは別もんなんですよ。
だからね、自分で勝手に条件付けして、そしてそれを失った時、どんな物でも手に入れたなら失う時がありますから、それから逃れる事は絶対にありません、不幸だとなる訳です。
だからこそ、お金を幸せと思うどこかの国の中央の方々は国民から必死に巻き上げるんでしょうね・・・。なくなったら不幸ですから、それはもう必死なはずですよ。

でもね、幸せの条件付けがなくて、何がなくとも今幸せであれば、その幸せは外の条件に一切左右されなくなります。



世迷い言に聞こえますか?
聞こえると思うんですよ。だって僕もそう思っていたから。
だけどね、幸せに条件はいらないんです。外に幸せはないからです。
自分の幸せな思い、それが投影されているだけです。突然やって来る幸せを、それを外にあると思うと、それを追い求めます。当然です。
だから、失う事が凄く悲しくて、失ったその時は不幸です。
だけどね、本当はちょっと違うんです。
その幸せな出来事は、自分の中にある、元々持っている本質の幸せを感じて欲しくて起こるんです。みるべき物は、外にある物ではなくそれを見て感じる自分の気持ちだったりします。思い出して欲しいし、それをよりクリアに感じたいが為に人生は苦しみがデフォルトになっているんですから。
だから、気持ちを大切にして欲しいと思うんですよね。

あ、話がずれてる・・・・(汗


なんにしても、本当のことを言えば、自分がすべてです。
それ以外には何もありません。

すっごい電波ですからね、気をつけてください。(笑





僕の世界は僕だけの物です。
あなたの世界はあなただけの物です。
70億の人間がいれば、70億の世界があります。
その70億の世界が接点を持ちながら織りなすタペストリーが言うなれば世界です。たぶん「それ」がしたかった事です。
誰一人として状況の被害者はいません。そう思っているだけです。

世界があって、そこにいるのではないんです。
一人一人がそれぞれの世界の創造者、というのが本当の事です。
その創造は頭の中の自分は担っていません。頭の中を自分を自分だと勘違いしているうちは分かりません。
それでもね、見える物は全く同じなんです。
だから気が付きません。でもそういう事です。

地球が平たくて、天が動いていると思っていた時と、地球が丸くて地球が回るが故に天が動いて見えるって分かった時と、見える物に変化はあったでしょうか?


ないですよ。


同じように日が昇り、日が沈み、地平線、水平線が見え、それはまるで地の果てのよう見え、そして星たちは地球の周りを回っているように見えます。

天動説だろうが地動説だろうが、見える物は全く同じです。
でも、天動説を信じれば、ありもしない地の果てに怯え、とんちんかんな空想を繰り広げるのです。

別にそれもそれがいけないと言う事じゃないですけど、地球が丸いのに地の果てに怯えていたってねぇ・・って。
でも、天動説を信じる人に地動説を言葉で信じさせるのは非常に難しいです。だって、見える物は一緒ですからね。


ガリレオは当時狂人扱い。でも、もし今天動説を唱えれば、そいつが変人扱い。
まぁ、こういうのってのは共有が可能ですからね。ただ、コロンブスが地球を一周せず、人類が宇宙に出ずにいたなら、きっと意見は別れたでしょうね。



ということで、何かを憂うのであれば、まずは自分をみて欲しい。
自分自身が完璧で、自分の宇宙で一番価値のある物だという事を思い出して欲しい。
そう思わせないそれは、自分だと思っているそれは本当は自分ではないですから。それじゃないんですよ、自分って。
だけど、それが自分だと思います。うん、だって本当のそれと寸分違わずに同じ物だから。
でも、頭で考えるとハートで感じる、って何となく区別がつきませんか?


ハートで感じる物が本当のことなんでしょうね。

だけど、頭で考える事も必須なんです。

要はバランスなんですけどね。世界のバランスがおかしいというのであれば、それを見る人の、頭とハートのバランスがそうであるから、大多数の人のバランスがそうであるから、と言う事も出来るかもしれませんね。


けど、どんな時も、まずは自分がどうあるか、なんです。それしかないんです。自分の世界しか自分には存在していないからです。


それはある意味、腹を括るという感覚に似ているかもしれません。


何が起きても受け入れる。それは悲壮感ではありません。
自分自身を信じるからこそ出来る事です。
外に左右されない幸せを自分の中に見つけた、そしてすべてはそれだったという確信、だからこそ、外に何が起きようが受け入れる。死ぬなら死ぬでよし、とことん落ちるなら落ちるでよし、プラスだろうがマイナスだろうが、矢でも鉄砲でも持って来い!!


ちょっと違うかもしれないけど(汗)、でもそんな感じですよね。




どんな時も、自分がどうあるか。
何をするかではありません。それはたいした問題ではありません。どんな自分でいるのかという方が遥かに重要です。
簡単に言えば、人生つまらないと決め込んだ人は何をしたってつまらないんです。楽しさを覚えたって一時的です。だって、つまらないを見つける事の名人ですから。
逆に、人生が楽しい人は何をしても楽しいんです。どんなつまらなく思える事にも楽しさを発見していきます。だって、楽しさを見つけ出す事の名人ですから。
でもね、どっちにでも成れるんです。

その自由を僕たちは与えられています。


外に右往左往する人生でもいいでしょう。外に影響されずに生きる人生でもいいでしょう。
実は好きな方を選ぶ事が出来るし選んでいます。そして、それはいつでも変更が可能です。


出だしから話がなんだかずれている様な気もしますが、いつもの事なのであまり気にしません。(苦笑


←勢いで書いてみましたが、伝わりますでしょうか?  

Posted by アド山 at 20:44Comments(0)気付いた事

2012年11月29日

正解は・・・・

さてさて、昨日のおとうさん。
一体どれが本当のこの人かというと・・・、




どれも違います。。。



かいしゃいんとか、かちょうさんとか、そしておとうさんも全部この人そのものではなくて、言ってしまえば役であったり、肩書きであったり、そういう物でしかありません。
もうちょっと言えば、この人はただこの人です。それだけです。
さらに言えば、肩書きを全部とってしまっても、この人がこの人でなくなる事はありません。




全部肩書きみたいなもんです。レッテルとか言う言い方でも良いかもしれませんけど。


ちなみにこの人はベッテルですけど・・・・(大汗

それと自分自身とは実は無関係です。
だって、レッテルですから。貼ってあるだけですから。
だから、実際に簡単にはがれますし、中にはそれは剥がれんだろうって思うのもありますけど、でも剥がせます。
だって、レッテルであって、自分自身ではないですから。

あっ、無理に剥がさなくていいんですよ。
剥がしたら剥がしたで面倒くさい事も多いですから。。。

けどね、困った事に、この単なるレッテルを、剥がしちゃいけない物だとか、もしくはそれ自体を自分自身だと勘違いしちゃったりして苦しんだりとか、そういう事ってあるんですよ。
剥がすの剥がさないのはそれこそ自由なんですけど、だけど、元々そういう物だからね、だから囚われちゃっていたらそれに気が付いちゃいましょうか、ってな話だったりします。

ちなみに、剥がせないとすれば、そのべったりと張り付いた糊の事を「恐れ」と言います。
恐れがあれば、絶対に剥がす事ができません。苦しんでいるのに、です。
恐れは、自分自身を信じられぬが故に発生するようです。逆に、自分を信じている人には、レッテルはレッテルに過ぎないので、剥がそうが貼ろうが、別に大きな問題ではなくなるようです。


糊がべったりと付いた物を無理に剥がすのはとても難しいです。
だけど、自分自身を信じる、という事が腑に落ちた時、そこに恐れという糊はなくなりますから、無理に剥がすまでもなく簡単に剥がれます。
別に、かいしゃいんでなければいけないなんて事もないですし、かちょうさんでなければ、なんて事もないですし、おとうさんであってもなくても良い訳です。最後は反感買いそうですけどね。。
けど、言ってしまえばそういう事です。
もし、そのレッテルに、何か拘りがあるのだとすれば、それはその人の価値観の話だったりします。
それは、その人にとってどうかというだけの話であって、それ以上でもそれ以下でもありません。
その人の世界の話ですから、その人がすべて決めれば良いのです。

ただ、一般論的に言えばこう言う事です。

レッテルはレッテルであって、それは自分ではありません。

さらにもう一つ深く言えば

レッテルごときで自分の価値は決まらない

という事です。

そして、そのレッテルは、簡単に剥がせます、という事です。


同じレッテルでも、価値を重く置けば剥がせなくなります。価値を見いださなかったら簡単に剥がれます。それは自分次第です。
そして、自分自身という価値よりも価値のあるレッテルはこの世に存在はしていません。
ただ、そういう価値を自分自身で与えてしまう事は・・・・、それは可能です。


←今回はすらすらと書けました。少し酔っている方が何かと良いようです、僕はね。。。  

Posted by アド山 at 22:00Comments(0)気付いた事

2012年11月28日

一体どれが本物?



〜 ぼくのおとうさん 〜

おとうさん おとうさん

ぼくのおとうさん

かいしゃへいくと かいしゃいん

しごとをするとき かちょうさん

しょうどうはいると おきゃくさん

 

おとうさん おとうさん

ぼくのおとうさん

はいしゃにいくと かんじゃさん

あるいていると つうこうにん

 

おとうさん おとうさん

ぼくのおとうさん

がっこういけば せいとさん

でんしゃにのると つうきんきゃく

 

おとうさん おとうさん

うちにかえると

(ただいまー)

ぼくの おとうさん


これは、NHKのピタゴラスイッチで時々流れる歌ですが、さて問題です。

どれが本当のこの人なんでしょうか?


←正解は・・・・ここを押して・・・・・・、そして明日まで待たれよ!!  

Posted by アド山 at 23:36Comments(0)気付いた事

2012年11月27日

繰り返す事

繰り返し繰り返し、同じ誤りを犯したり、同じ様な事で何度も何度も苦しんだり。
こういう事ってあります。

僕も一つありました。
いわゆるコアビリーブというもので、幼少の体験なりで自分が気付かないほど根深い所にある思い込みなんですけど、これがだいたい原因であったりします。

ただ、面白いもので、目線が違えば対処が違ってきます。

自我目線で言えば、そこを自覚した上で光を当てましょ、的な感じになるのかな?コアビリーブってのも言うなれば自我目線のものですしね。
セラピー的なね。
僕もやりましたけど。セルフでも意外とやれるときはやれるみたいですね。
でもね、やっぱり繰り返し出て来るんですよね。
セルフでは限界があるし、先生に付くにしたってね・・・、まぁ、あれですよ、ごにょごにょなイメージですからね・・・。


けどね、もうちょっと言えばですね・・・・


自我を飛び越えた所からの話で言えば

これはですね・・・、これってカルマになるのかな?その辺の言葉はよく分からないのですが(汗)
言ってしまえば、学びの為に起きている、って事でした。
魂を磨く為に、と言えば良いのかな?
だから、繰り返しそれが起きるってことは、それがこの人生の一つの課題なんですね。
クリア出来ないから、環境が変わろうとも、同じ様な事がなんどもなんども起きるんです。

だから、どうして自分にはこう言うことが繰り返し起きるんだろうか?どうしてこんな風になるんだろうか?と思うのであれば・・・



まずはリラックスしましょうか。(笑



人生にしなければいけない事はありません。だから、その問題も、クリアして欲しいという思いで課せられたものですが、クリアしなくちゃいけないって事じゃないんですね。
でもね、クリアした方が良くないっすか?ではあります。

でも、基本的には苦しみですから、嫌じゃないですか、苦しいのは。楽しい方が良いに決まっている。
この辺も実は罠であったりするんですが


だけどね、例えば楽しいとか苦しいとか、これって実は同価値なんですよ、って言われてもあまりピンとこないんですね。
結局は、コインの表の裏であって、コインは同じものでしょ?って話になるんですけど(汗)、僕の持つ言葉ではこうとしか言えなかったりします。コインの表は好きだけど、裏は嫌いってね。
財布からコインを出したとき、裏を見ちゃってもだえ苦しんでいる、みたいなね。(苦笑
そう考えるとなんか滑稽でしょ?
だって、裏だろうが表だろうが、それはコインですもん。同じもの。
ちなみにコインはたとえですけど、それに何か言葉をきちんと当てるのであれば、恩寵、ではないかと思います。


自我、というものは必ず比較したり、価値観から判断したりして、そして結果を求めます。
〇〇だから〇〇なんだ、みたいなですね。
まぁ、ちょっと注意深く自分の考え方を観察してみてください。吃驚するくらいにそのように考えていますから。
もちろん、それが悪いという訳ではなくて、まぁ、それがデフォルトなんですよね、って話なんですよ。

ただ、自我さんは、コインの表か裏しか見ていません。
コインそのものを見る事は出来ないんです。コインそのものは感じるしかないのですが、その感じるという事は自我さんには出来ません。でも、感じている振りをするのは凄く得意だったりします。
だから、人は苦しみから目を背けて、まぁ、僕も背けますけど(苦笑)、そして同じ事を何度も何度も繰り返すんですよね。そして、裏は嫌だから表を求めるんですけど、まぁセットですからね、表と裏は。どちらかだけを手にする事は出来ないようになっている訳です。

だからもし、苦しみから抜け出したいと思うのであれば、それがコインである事に気が付くしかないのですが、まぁ、何気にこういう事って普通に乗り越えて来ているんですよね。
昔こんな嫌な事があったけど、今思えば、それがあったら今の自分があって、そういう意味ではありがい事だったんだぁ、って奴です。

って事はですね
だから、どんなに苦しくても不幸に思っても、それはそういう事なんです。
真っ最中はそうはとてもじゃないけど思えませんけど。
けど、もうそういう事以外はあり得なかったりします。

だからお釈迦様は「安心して苦しめ」と言う訳です。

ま、そういわれてもねぇ、なんですけどね(汗)、でも、本当のことを言えばそういう事なんです。

神に見放された、とか、神を呪ってやるとか、そういう風に思う事ってあります。
でもね、どんな時も絶対に神様は自分を見放すなんて事はないんです。いかなる時もです。

苦しみは、それを苦しみとして捉え、それに抵抗するが故に生じます。
これが本当の事です。

そして、ならばどうしてわざわざそのようになるのかと言えば、そうしたかったから、という事になります。
魂を磨くという言い方も出来ます。
すべて、自我さんには理解出来ない範囲の話だったりします。。。

そして、そんな自我さんは、いると思っていますが、実はいなかったりするんですね。

で、これを頭で一生懸命に考えても、考えるのは自我さんですから絶対に考えても分からないようになっています。この辺のからくりが。また上手い事出来ています。

だからね、深刻に考えるのは実はあまりよろしくなかったりするんですね。考えちゃいますけどね。

僕が好きな話で
大阪のお好み焼きチェーンの「千房」ってあります。鹿児島にも割と最近出来ましたけど。
昔、日経レストランの記事でそこの社長さんの話が出ていました。
バブル末期に自社ビルを建てて、バブル崩壊後、そのビルのせいで完全に経営が立ち行きいかなくなります。社長は毎日資金繰りに帆走するのですが、その時期の話がですね、たしかこんな感じだったのですが・・・

「よく眠れないほどに悩む、って言うじゃないですか。でもね、僕はその時期もよう寝てました。悩んで解決するのならいくらでも悩みます。でも、悩んでも解決しないでしょ?」
「そして、どれだけ追いつめられても、どうにかなるって信じていました。そして、そのチャンスだけは逃がすまいと。」

この人は、人の繋がりから、一度会社をファンドに落とし、雇われ社長として会社を再建し、そして今現在に至るはずです。


つらい事、苦しい事がある事が良いとは言いません。やっぱりない方が嬉しかったりします。
けどね、実は、苦しい事も嬉しい事も同じコインなんです。そう見えるとか見えないって話じゃないんですよ。そうなんです、って話ですね。恩寵を受け止めた時、繰り返しはそこで終わります。そして次のステージへと続くようです。


すべての人が天動説を信じていた時から、実は(?)地球は丸かったのです。



←何だかね、納得はしてもらえないかもしれないですけどね・・・。  

Posted by アド山 at 20:41Comments(0)気付いた事

2012年11月27日

ケータリング

ども、フリーの料理人、アド山です!!

言い換えれば、無職です!!

でも、言い方を変えるとフリーの料理人です!!




・・・・・・・・・(汗)


という事で、フリーのお仕事(笑)として12/16にマルヤガーデンズさんでの料理教室があるのですが、それだけではちと寂しいので、ちょっと色々とチャレンジしていこうかと思います。

まずですね、こうした料理教室もやっていくのですが、あ・・・、あれです、普通の料理教室ですよ。
ただ、ちゃんと方法論をお教えしつつも、楽しく作る事、これをどうにか伝えたいなぁ、って思っています。

あれなんですよ。もうこれは絶対にそうなんですけど
美味しい美味しくないって主観でしか無いんだけど、けどね、それを超えた美味しさってやっぱりあるんですね。
それを具体的に指し示す事は出来ません。それは存在しないから。けどね、存在するんです。

とほぼ謎掛け状態ですが(汗)、でもね、それをどうにかして伝えたいですね。


食べる人の笑顔を想って、楽しく料理しようって事なんですけど、でも、どうしても方法論だけに目がいっちゃう。
方法論も大事なんだけど、だけど、そこにばかり目がいっちゃったら、大事なものが抜けちゃう。
だから、自分が楽しむ事でそれを伝えられたら嬉しいですね。

出来る出来ないじゃなくて、やってみましょうよってな感じですかね?

小難しい話は抜きにして、食べてみて美味しいから、それも簡単で、だから教えてもらってワクワクして台所に立てる様な。




・・・・あかん(汗)

自分でまたハードルあげとる・・・・(滝汗



ま、いいか。。。。



で、そんな料理教室の他にですね・・・

アド山さんの料理が食べたいんだけど・・・、と嬉しいお言葉をいただきます。

本当にありがたいです。

お店を持って・・・、っていうことも出来ませんし、誰かが雇ってくれてっていうのも何も考えなければ働けますけど、アド山さんの料理とか、そういうことはなくなるので(汗)、それとそれ以外にもやりたいことがあったり・・。
先のことはあまり考えないのですが(汗)、わからないものはわからない、ということでね・・、ただ、ケータリングとかできたら嬉しいな、と。

ケータリングというか、出張料理ですね。
何回かしたことがあるので、どうでしょうね・・、うん、ちょいとやりましょうか!!

一応ですね、最低予算は¥15000から。

例えば、友達6人でパーテーしようかっていう時に、この人に頼めば、一人¥2500でアド山さんの料理が楽しめます。
もちろん、一人¥3000の予算で、という頼み方もできます。

ただし、最低でトータルで¥15000からになりますっ!、ってことですね。

10人で¥15000でもできますが、まぁ、あれですよ、一人¥1500ですからそれなりになりますので、その辺はね・・・。(汗)
二人なら、¥7500の料理ってことになっちゃいますが、その辺はワインをつけたりとか、長年の経験を元に調整したいと思います。

それに、基本的に別料金になりますが、ワインが必要でしたら、別途ご予算を頂いてコーディネートいたします。
グラス等は基本的にお客様でご用意頂きます。その分、レストラン等よりもお得なワインをご用意できるかと思います。ワインで儲けようとは思いませんし。。。
グラスはこちらでもご用意出来ますが、その場合別途料金を頂きます。

自宅でプロの料理をちょいと気楽な値段で。

自宅でクリスマスパーティーやっちゃおうとか、誕生日祝いをやっちゃおうってな時に、私があなたの自宅の台所で料理をお作りいたします。
だいたい、前菜、パスタ、メインになると思いますが、コースで一人一皿、では無くて、いわゆるパーティー料理みたいなものだと思ってください。


美味しく楽しく、を今までに無い形でいろんな人に届けられたら僕もかなり嬉しい。
僕にはやっぱり料理しかないから、箱を持たないフリーの料理人としてこのようなチャレンジをしてみたいと思います。


という事で少しまとめましょう。

ケータリング(出張料理)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
予算:¥15000〜(応相談
ワイン、ワイングラス(レンタル)などは別途相談に応じます。
(ワイン¥1800〜、グラス1脚¥100〜)
また、お皿、シルバーなどもレンタル出来ます。
(別途費用を頂きます。お一人¥200〜)
2日前までにご予約ください。
基本的に市内に限らせて頂きます。それ以外の地域の場合は移動費等別途費用を頂きます。

料理は基本的に取り分け料理になります。前菜、パスタ、メイン、ドルチェ、の構成になります。(予算やご要望で変更出来ます)

ご自宅にて料理(1時間〜2時間)をお作りして、テーブルサービスもさせて頂きます。
お食事後まで努めて、片付けをして、引き上げる、という形になるかと思います。

ランチ、ディナーなど時間は特に問いません。
まずはメールにてお問い合わせ頂いて、ご要望をお聞きしたあと、お電話にて詳しく打ち合わせをお願いいたします。
E-Mail adomani@me.com

また、台所が・・・・、という場合、お料理を重箱につめて持っていく、という事も可能です。



これはあくまでも一例ですが、このように対応する事も可能です。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

料理教室とケータリング。
まずはここから新しい一歩を踏み出していきたいと思います。

ケータリングご希望のお客様はまずはメールをお願いします。


←お一人様にも対応しますよww  

Posted by アド山 at 02:10Comments(0)店のこと

2012年11月26日

やってみましょう!!

言葉が指し示せる範囲は狭い。
そして、受け取る側にその解釈は一任されてしまう。
そして、伝達の手法として、僕たちは言葉しか持っていない。

口頭で話せば、感情とか、表情とか、言葉以外のプラスαがあるので、それなりに伝える事が出来るかもしれないけれど、それが無い文章というものは、真意を丁寧に伝えようとすればするほどに長くなる・・・・。

自分の文章が無駄に長い事に対する言い訳なんですけどね・・・・。



今日は会いたい人たちに会ってきました。



どういう訳か、申し込んでから数日して、目覚めの体験を頂いてしまった訳なんですが(汗)、何はともあれ、会ってみたくて申し込んだ訳ですから、やっぱり行ってみようと。

もうね、やっぱりねここにたどり着くまでにトラブルが起きるんですが、それでもなんとか無事にたどり着きました。
うん、今回はヤバかった・・・。
でもね、ちゃんとたどり着きましたからね。それはそれで。。。


で、お話を伺いながら思ったのが・・・・



言葉って難しいよな・・・・・って。


「月を指し示す指は月ではない」って事なんですけどね、月を説明する為に言葉を足せば足すほどに、その言葉に囚われちゃうんじゃなかろうかって。月そのものは、感覚で捉えるものなんですよね。
文章で言えば、行間を読む、みたいな。
言葉そのものを捉えてもだめなんですよね。
その辺の難しさ、というものを感じたり・・・

でも逆に、同じ事を、この人はこの方向から光を当てるんだな、とか、その辺が面白かったり。
でも、光を当てているものは、自分が理解していると思っているものとやっぱり同じだ、って分かるんですよね。
それが面白さであって、また、分かりにくさでもあって・・・、だから言葉がツールなんだろうな、とか思う次第で。。。


何はともあれ、これから先、何があるのか分かりませんけど、
自分がやりたいと思う事を、ゆっくりと、一つ一つとやっていけたなら、と思っています。

お店がしたいっ!!
という気持ちは実はありません。(ごめんなさい

出来ないから、ってのが本当の所の理由ですが、だって、常識的に考えて無理だもん・・・、お金もないし、社会的にも死んでますから(涙)、お店を立ち上げるなんて無理無理・・・・。
それにね、どうしてもワクワクしてこないんです。

トラウマになってしまっているのかどうかは知らないけれど、オーナーシェフとしての自分を思い描いてもワクワクが湧いてこない・・・。
結構重症です。

でもね、料理は好きだし、料理はしたいって思うんですよね。

何にしても、先の事は誰にも分かりません。決める事だって出来ません。
ただ、分からない事に対して、何かを思い描くのであれば、ワクワクする様な事の方が良いに決まってる。
ワクワクしない事を思い描いたってしょうがないじゃない。だから、今、自分が何をしたいか?


過去の経験から来る推測なんてもういらない。
世間様の常識ももういらない。

実はそんなものは、足枷にしかならない。
世の中がそう出来ているのであれば、結果は考えずにワクワクに従ってみようかと思う。

一つ言えるのは、僕は料理は好きだけど、厨房にこもる様な事はしたくない。
だから、一つ自分の中の常識を壊していきたい。

本当に先の事は分からない。
分からないし、今何も持たぬのであれば、どんどんいろんな事にチャレンジすれば良い。
どっちにしたって、明日どうなるのか分からぬこの身。やりたいようにさせてあげるのが良い。

価値観で動くのではなく、あくまでもハートに従ってみよう。

「目覚め」の体験も公言する事もどうしたものか、と思いつつ、でもね、もうその辺も体験したものはしたんだから、だから別にいっちゃった人で良いじゃん!!だって、そうなんだもん!!と。
今後の事も、それで飯が食えるとか食えないとかじゃ無くて、とにかくやりたいようにやってみようと。
社会的には死んだ様なもんですから(汗)、もう何も怖いものなんか無いですからね。

結果も期待しない。

だいたい、結果を恐れるが故に大概の人は自分のワクワクに従えなくなるんですよね。
それが価値観って奴ですけど、もちろん僕もそれに囚われている訳です。ただ、僕は、それに囚われている、ってことに気が付いています。
それが今までとの違いですね。
状況が変わったのではなく、状況の捉え方が少し変わった、程度のもんです、気付きなんて。
でも、それが、これほどまでに心を自由にするとは思っていませんでした。


ので、まずは料理教室!!って所なんですが、もう一つやりたい事があるので。
それは次回のブログで。
ええ、アド山さんの料理が食べれます。
乞うご期待!!


←何はともあれ、やりたい事を納得のいくようにやってみる。目覚め、とか、そういう事は関係なく、生きるってそういう事ですよ。  

Posted by アド山 at 02:03Comments(0)店のこと

2012年11月23日

料理の事

料理教室をするんですけどね・・・、12/16にマルヤガーデンズさんの地階の”まるやの台所”で11時からで、たしか¥3000だったと思うんですけど、何卒よろしくお願いします。

時期が時期だけに、クリスマスパーテーに使えそうな簡単で美味しい料理を紹介出来たらなぁ、と思っています。
一応イタリア料理のシェフをしていた訳ですから、そっち方面の料理にはなると思うけど、美味しく楽しくを第一に考えようかな。
お楽しみに!!

で、ちゃんと料理教室の記事は書きますけど(汗)、ちょいと料理の事で


拘りがなくなっちゃったんですよね・・・・。

良い意味なのか悪い意味なのかも知りませんけど(汗)、今までは

これはこうでなきゃいけないっ!!

なんて思いの元で突っ走って来たんですよ。

でもね・・・・

なんかね・・・・



だからなんなの?


ってな感じなんですよね。


結局ね、自分は一体何の為に料理を作っているんだろう?
って事が頭にあったんです。

ずっと頑張って来て、かなり無理もしたし、本当に鬱だったんじゃないかなって思うくらい、本当にそれを心配してくれる人がいたり、だけど、現実問題としてからった物がたくさんありますからね、立ち止まる事は出来ないし・・・・
好きなだけでは続けられない。でも好きでなければ続けられない。ってことでね。
もっとレベルあげなきゃ、とか、もっと成長しなきゃ、とか、こんな自分で満足しちゃだめだ、とか・・・・。

でも、いろんな事が破綻して

自分の為に料理が出来ない自分がいたり・・・、それじゃだめなんじゃないかな、って思ったり


ま、色々とあったんですよね。(汗)


ただ、一生懸命にやろうがどうしようが、だめなものはだめだった訳で
料理をする事も苦痛になる。
救いは、作ってあげたい人には作ってあげる事が出来た、って事かな?けど、それでも楽しい、に楽しくない部分がやっぱりあるんですよね。料理、という行為の中にね。

何の為に料理をしているんだろうか?
完全に変なスパイラルに落ちちゃっていたんですよね。


で、イタリアで、WWOOFingしている時は自分で作るんですよ。
コジモにいる時は共同生活ですから、当番制で料理をするんですよね。インペリアの時は一人だけのWWOOFerでしたから、全部自分でしてましたけど、あれですね、一人で食べる食事はやっぱり味気ないもんでした。ま、でも、それならそれでよし、なんですけどね。。

コジモで料理を作る時は、最大で14人分、少なくても4〜5人分を作るんです。
僕の作る料理ってどうなんだろうって、思っていましたけど、みんなに気に入ってもらえていたようです。

「今日の料理は誰?」
「TAKAだよ」
「やった〜!!」

みたいなね。




これは、最初のコジモの滞在時の最後の日ですね。
TAKAのお別れ会&誕生日祝い。
料理は全部自分で作りました。(笑)最後だから、僕としては感謝を料理に託したくてね。
それに英語が達者じゃないから、「これこれして〜」って上手に言えないのと、料理中は手の方が遥かに早いもんだからなおさらしゃべれなくなっちゃうので、考えて口に出す頃には手の方がかなり進んじゃっていてですね、基本的に僕が作る時は一人でやらせてもらいましたけど(基本的には二人一組)

ただね、楽しかったというか、何が嬉しいのかって

食べる人の笑顔ですよね。

でね、そこには、ただ美味しい、嬉しい、楽しいしかないの。
あれこれと比べてどうだ、とか、そういう比較がないの。目の前にあるものをただそれだけを楽しんでるって言えば良いのかな・・

僕が作らなくても、誰が作っても、そのときそのとき、美味しい。ただそれだけなの。

食材も、イタリアのスーパーで買って来たものですよ。
ま、確かに野菜もうまいし、肉もうまい。それ自体がですね。
だけど、言葉では上手く言えないんだけど

あれこれ比較したり、ジャッジしたり、それはそれで良いんだけど、だけどね、ここでこうやってもの凄くフラットに楽しんでいて、だからこれで好いんじゃないんでしょうか?って。


WWOOFってのは、基本的のオーガニックの農家さんだったり、ビオのワイナリーが対象になるんですけどね、で、その農作業のお手伝いをするんですけど・・・・、ま、あれですよ、夏の炎天下とかね・・・

日本でも農薬がどうこう言われます。
問題なのは問題なんでしょうね。
ただね、自分がこうやって手伝っていてね、多分、僕だったら除草剤は撒く!!とか思う訳です。
そしてね、もう少し言えば、全部恵みだったんですよね。上手く言葉にならないんですけど、なんかね、いろいろ問い言うのも小賢しいみたいなね。
目の前にある、それを云々言う前にね、まずは感謝だろうって。

なんかね、いろんなものがすっぽり抜けて、大事な事を全部忘れて・・・。
花を愛でるのは良いけど、いろんな花を比較してどの花が一番だ、なんてやるのも楽しいけど、まずはその花の存在だったり、なんかね、気にしすぎる必要は無いまでもね、何だか大事な事がすっぽり抜けてしまっている様なね・・・。
だから、拘りとか、あっても良いしなくても良い。どうでも良いじゃんって。

だってさ、大事な事はそういう事じゃないし、僕が求めていたものもそういう事じゃなかった。


すべては有り難いじゃない?

で、僕はそれを使わせてもらって、人が美味しいと思うものは作れないから、自分が美味しいと思うものを好きなように作って、そしてね、それをそのままにみんなで楽しんでいる時のあの瞬間。

ああ、これだったんだ・・・って。

感覚は言葉にならないから、あくまでも感覚の話なので、言葉にすると離れちゃうから伝わらないかもしれないけれど、ただ、僕は僕として何の為に、もうね、何の為にとかでもないんですよ、ただね、作りたいって。
だから作る。
ただ作りたいから僕は作る。

何だって良いじゃん。


それが、今の僕という料理人なんですよね。


ある意味変化自在。ある意味あるがまま。


いろんなものがフォーマット化されて、それがデフォルトな今の世の中では非常に分かりにくい話かもしれない。だって言葉にできないんだもん。(笑)
だけどね、拘りとか方法論じゃなくてね、その先にあるもの、その根底にあるもの。それを大事にしたいですよね。
そうすれば、自然とその間は埋まっていくんです。その間は気にしなくていいって事じゃないですよ。気にしすぎてもねぇ、ってことです。楽しめなくなっちゃう。
料理教室はまさにその間の事。
だけどね、今の自分に何が出来るだろうかって思った時に、方法論だけじゃなくてね、何か伝えられたら嬉しいなぁ、って。もちろん自分が。
で、自分が本当に楽しみきった時ってね、絶対にみんな楽しいから。
これはそうなっているんです。

だから、やってみようって。


楽しく、美味しく、そして出来るだけ簡単に。
みんなが笑顔で料理して、その笑顔ごと食卓に乗って、そしてそれを囲むみんなが笑顔になったら。
何だか凄く素敵じゃないですか?

拘るとか、拘らないとか、そういう所をぽーんと飛び越えて。
今の僕の料理は、多分そういう感じです。



←それと美味しいかどうかは別の話www  

Posted by アド山 at 17:19Comments(0)料理

2012年11月23日

「自分」の話

プロフィールやらちょいといじってみました。

これからもいろんな事があるでしょう。
事はどんどんいまここで起きていきます。だから、いまここでそれに一生懸命に対応していく。
〜しなければいけない、はどこにもない。
それを作っても良いし、作らなくても良い。その瞬間の声(?)に従えば良い。

南無阿弥陀仏。

法然さんが唱えたこの言葉の意味は

「私はいない、すべては起こるままに任せます」



自我と言われるものが一番嫌う言葉かも知れません。
だってね、認めちゃったら、自分が頑張れなくなっちゃうから。
だから、どうしてもこうすると人生を諦めるとか、張り合いがなくなってしまうとか、どうしてもマイナスの方向にしか受け取れない。

ちなみに、言葉って言うのは、すべて受け取る側に裁量があります。
僕が発する言葉の真意は僕しか知り様がありません。それを他の人が受け取るとき、その真意をそのままに受け取る事は不可能です。その逆もですね。そのように出来ています。だけど、そうではないと思っています。だから厄介なんですけどね。

「あの人がこう言っていた」
だから、絶対にこれはあり得ないんですよ。
「僕はあの人がこう言ったと聞いた」
という事なんですけどね。

だから、すべては受け取る側が自分の価値観を通してそれを判断します。そして、それを話として理解します。
だから、同じ話でも、感銘を受ける人もいれば、反発する人もいたり。人それぞれ。
どうして人それぞれになるのか、そこに疑問は生じないけれど(汗)、つまりはこういう事だったりします。

そして話を聞いていると思っている私、それがいわゆる自我、だったりするんですけどね。
自分に都合の悪い事は聞きたくないんですよ。価値観的に受け入れられない、とか言う所を少し超えた話かもしれないですね。

だから先の話も、まずはすんなりと受け入れられなかったりします。
さらに、そうした事もないのに、そうなるんじゃないかって。
ちなみに、自我さんはいまここにいながら、いまここにない事に思いを馳せます。それが自我さんの役割なんですけど、そうする事で時間という概念が生まれますので。

ちなみに、ぶっ飛んだ話ですが、時間って奴は実はありません。
あるように見えるだけの話なんですけど、時間というものは存在せずに、時間と呼ばれる概念が存在しています。だから僕たちは時間があると思っています。

相変わらず電波です。

でも、これが本当の事です。
存在するのは、この瞬間のみ。いまここだけです。
一度感覚が入ってくるとよく理解出来るのですが、頭で考えても捉える事は出来ません。
別にあってもなくても、それでも世界は何も変わらないんですが(汗)、ただ、囚われて苦しむのであれば、そんなものいらないんじゃね?って感じで。楽しければ好いんじゃないんですかね。楽しいも苦しいも同じ事なんですけど、苦しいよりは良いですもんね。ただ、必ずセットになっていますけどね!!
ちなみに、イタリアのマックは、基本的にバーガーとポテトとドリンクのセット販売がデフォルトのようです。最初はビックマックが6.1€だから、イタリアマックぱねぇ!!って思っていたんですよね。うん、単品の値段だと思っていた。。。ねぇ、いくらなんでも高すぎるでしょうに、ね。。。セットでの価格になります。
ちなみに、味は・・・・世界のマックですからね。淡い期待は抱かない方が良いようです。イタリアだから、とかね。

そんなこんなで、いまここでない所に思いを馳せ続ける自我さんとしては、南無阿弥陀仏、なんてとんでもない話なんですよね。
だから、僕のこの手の話は基本的に気持ち悪いとか、あの人変だ、とかそういう風になります。
僕もそうでしたからね・・・。
まぁ、これこれこういう理由があるので、そういう風に捉えるのがデフォルトなんですよね、ってな話なんですけどね。

じゃ、何で自我さんはそんなに必死なのかって言えば・・・・


元々自我は存在していないんですよ。
例えば、目の前に今あるものやこの体のように実在して「在る」ものじゃないんですよね。だから、簡単に消えちゃう。ま、消せませんけど。だけど、実像として存在があるものではないので、だから無くされたくはないんですよね。

そう思うともの凄くかわいらしいのですが(苦笑


ただ、本来の役割を超えてしまっているのが実情のようです。

もし世界がおかしい、何かがおかしいと思うのであれば、そういう事であったりします。
ただ、それを思うのも自我なんですけどね。。


実は、料理教室のお知らせの記事を書こうとしてPCをパチパチし始めたのですが、気が付いたらこんな記事に。(汗
そうなんですよ、料理教室をやりますので、次回の記事でお知らせします。



←頭で考えている事は、すべて自我さんです。なのでこう言う事もあまり考えない方が良いようです。  

Posted by アド山 at 15:43Comments(0)気付いた事

2012年11月23日

いまここにいる

またちょいと更新の間が空いちゃいましたね・・・・。
環境が変わって、ずっとバタバタ、というか、やる事と出来るペースが噛み合っていないので(汗)、ここしばらくブログが置き去り・・・。
ペースは相変わらず上がっていないのですが、まぁね、なるようにしかならないからなぁ・・・、などと思いつつ。

ここしばらくいろんな事を考えたりする事が多いのですが、言える事は一つしかないんです。



自分は、いまここ、にしかいない。

自分が消えた瞬間は、そこには、いまここ、しかなかった。
消えた自分というのは今まで自分だと信じていた自分でした。
でも、そんなものは「存在」はしていませんでした。


どんなに悩もうと、心を苦しめようとも、それはどこにも存在していません。

だからね、目をそらすのでもなく、ただ、そこにはない、という事を直視すれば良い。
目をそらそうとする事は、そこにある、という事を前提にしないとあり得ないから。
逃げるも目をそらすも何も、ないものはない。ただそれだけ。

そうではないと誰かが必死に呼びかける声が聞こえるけれども、それは自分ではない。自分だと思っているけれども。

でもね、応じてはいけない、という事ではない。

ただ、そうなんだよって言うだけの話。



無視しても良いし、ないという事を知っても良いし、それこそ自由。
ただそれだけだったりする。


明日どうしよう?

・・・・明日になったら分かるんじゃないんですか?



どうでも良いけど、僕も常に悩みます。
どうでも良い事でたくさん悩みます。ま、悩みって分離なんですけどね・・・・。

だけど、答えはいつだって



分かるはずがないじゃん!!


だって、それって、いまここ、の事じゃないから。



でも、どんどん考えが、恐れが湧いてくる。


うん、そういうものなんです。
眺める事が出来ないのなら、思いっきりそういうのに浸かってしまうのが良いかもしれません。
だって、それを感じたくて感じているんですから、感じきらせてあげても良いかもしれません。
そうすると、何かが変わります。
けど、それも怖いんですよね。

だから、中途半端に蓋をして、どんどん溜めていく。
そして、ばーんと破裂する。

別にそれでも良いんですけど(汗)、その時はそうなるようになっているから、って言う事も出来ますから。



でも、どんな時も忘れちゃいけない。

過去は存在していない。忘れてしまえば、ほら、何もないでしょ?わざわざ覚えておかなくていいですよ。
未来はまだ来ていない。その時の事は、その時の自分が対応するんですから。考えなければ放っておけます。

え?状況が悪くなったら?って??

ね?考えちゃう。(笑)
けど、それで本当に結論が出る事がありますか?
でたらでたで吃驚しますけど。(汗)だって、完全なる予知ですからね。。。


大事な事は、過去を憂う事でも未来を心配する事でもない。
自分の肉体を含め、現象が唯一存在出来る、いまここ、にいる事。
そのうちに、すべてがここにある事に気が付きます。

そして、最初っからそうであった事にも。


←もうね、南無阿弥陀仏、なんですよ。  

Posted by アド山 at 01:43Comments(0)気付いた事

2012年11月16日

なぜかリヴォルノ

スージーとエンポリでお別れして、そして、チケットを買う段階で目的地を知るアド山さん。

リヴォルノにいくのね・・・・。
でも、午後3時から、しかも小雨がぱらついているのになぜリヴォルノにいくのか全然分からないというww
ま、こういうシチュエーションには慣れっこなんですけどね。
だって、四六時中こんなんですから・・・・。(汗

ちなみに、フィレンツェは内陸ですが、リヴォルノは海岸線沿いの街。
ラ・スペツィア(チンクエテッレの入り口)には行った事がありますが、リヴォルノは初めて。

つたない英会話で、やっと何をしに来たのかを知ります。
アントニーが勧める美味しいオステリアがあるので、食べに来たんだと。。。

本人たちも場所もよく分からないようで、聞き込みをしながら4時過ぎにたどり着きますが・・・・、ディナーは8時からだって。。
4時間・・・・、ま、どうにかこうにかなるもんですね。



ラ・スペツィアでも魚介系のレストランにいったんだけど、この時は一人でしたけど、正直今まで魚介系で満足した事は無かったんですよね・・・。なんかね、雑というか、あまり好きではない味。自分がもしこういう風に作ったら、ちょいとやだな、って感じで・・。
ま、伝わりませんが。
こういう主観的な物とか、体験って共有出来ないんですよね。
ま、どうでも良い事なんですけど。



ここの料理は美味しかった。パスタは完全に陰ってますけどねっww
何でも、牡蠣とか生の魚介類のアンティパストが名物らしい。あと、ムール貝。
他のテーブルのを見ていたけども、アホみたいなボリュームで。。。

ここはまた来たいな、って思った。



魚介のフリットですけど、見事に魚ばかりww
ここは、頭からバリバリ食べてみたり。うん、綺麗に揚がってました。

まぁ、ここで食事を楽しんだのは良いんだけど、このあとが大変。
駅に戻るバスが無い・・・・。時間は既に10時を回ってる・・・。ま、そりゃそうでしょうね、8時からですからね・・・。
最終の列車が10:45・・・・。
うん、間に合わないね。。

キャリーがタクシーに電話をして来てもらうものの、来るのに15分かかると言われて・・・・、えーと、電話をした時点で10時を大分回っているから、これって相当ギリギリですな。
などと人ごとのように思っていたアド山さん。
なぜかね、どうにかなるから大丈夫って思っていたんですよね。今回は。
で、10分後にはタクシーが到着。ちなみにですね、日本では乗車後にメーターが動き始めますが、イタリアでは呼びつけた場合、そこに向かう時点でメーターが動きます。なので、乗車時にはそれなりに料金が発生しております。(汗
日本のタクシーって有り難いですよね。ちなみに、流しでタクシーを拾う事はまず無理です。。

10時40分には駅着。
しか〜し、チケットを買おうとしたら、何か変・・・・。
自動発券機で買おうとしたんだけど、なぜかエンポリの到着時刻が2:00・・・・。




え?




意味分かんない、と思って良く見ると・・・・

列車はピサまでで、ピサでバスに乗り換えるって・・・・。
ピサには11時過ぎには着くんだけど、バスの発車時間が1時過ぎ・・・・。


まさに想定外。


だけどね、月曜日は(この日は日曜日)仕事があるから、始発で帰るか、この訳分からない便で帰るしかない。

こういう時はね・・・・、諦めたもん勝ちです。
いいじゃない。一人で待ちぼうけを食らうよりは仲間がいるんだから。キャリーなんかエンポリの駅のタクシー会社に電話してタクシーを押さえる冴えを見せます。お手柄ですよ。
で、ピサで列車を降りて約2時間。

変なおっさんに絡まれてみたり・・・・、面白かったけど不気味・・・。(汗



こんな事してみたり・・・



こんな事をする人がいたり・・・。

エンポリからタクシーに乗って帰って来た時にはクタクタでしたけど、ね、ちゃんと帰って来れたでしょ?ってな感じで。。。
それにしても、こんな遅くまで起きていたのは久しぶり・・・。

みんな同じ条件なんですけどね、次の日に異様に疲れを感じていたのはひょっとしたらおいらだけかもしれません。
見た目は27歳ですけど、肉体は43歳なもんで・・・・。(涙


←やっぱり笑顔って大事。深刻にならないって大事。  

Posted by アド山 at 08:03Comments(0)イタリア滞在記

2012年11月15日

リヴォルノへ

スージーがニュージーランドへ帰るその日、スージーをエンポリまで見送って、その後すっかり少なくなったWWOOFerとリヴォルノへ。

相変わらず適当なヒヤリングしな出来ないんですが
「hfgvbrvふっgっvklhdゔぉlv・hv、一緒に来る?」(←こんな感じww

ニコルに言われたら、それは即答で「Yes!!」になった訳ですが、どこに行くかも分からずにお供しているおいらって素敵。。



ただついて来たジャポネーゼを含めての5名様ご一行。

明らかに夏のいでたちのキャンシー。僕にはどう見ても寒いです。見ているだけで寒いです。本人は大丈夫だからこの格好です。。
ジャストな感じのキャリー。
そして後ろ姿も美しいニコル。
バックパッカーなスージー。

一番後ろからふと冷静に見た時に、何とも面白い組み合わせのご一行ではないかとふと思った物ですから、ぱちり、と。

さらに、この辺ではとんと見慣れないアジアンまで含んでますからね。。


ponte a elsaまで30分ほど歩いて、列車でエンポリへ。

ちなみに、ponte a elsaは完全な無人駅なんですよね。チケットも売ってないんですよ・・・。
エンポリまで5分くらいですよ、無賃乗車。多分これがデフォルトのようです。無賃乗車がデフォルトって素敵。。

なんだけど、もしエンポリと逆方向のシエナ方面にいく時はどうなるんだろ???

と疑問に思わぬ事は無いですが、そう言う時がくれば自然と分かるでしょう、ってことでね。


今回のステイでは、明らかに僕たちのお母さんだったスージー。ありがとね。
年齢的には僕がお父さんなんだけど、今回もお父さんは不在でしたね。。。


なんだろ?

なんだかんだで、すっかり若返ってしまた気がするのは僕だけかもしれませんが、あれですね、年齢って案外たいした意味は無い物ですね。年上だからとか、年下だからとか、何歳だからとか・・・、それとその人は何の関係もないんですよね。
ただ、年齢はその人自体には意味がありますよ、多分。
だって、それを経て今のその人がある訳ですからね。でもね、それだけの話なんですよね。
それと、その自分がどうあって何をするのかって言うのはまた別の話なんだよなぁ、って・・。

COSIMOでは上下も無いし、ただ仲間なんですよ。
やれる事をやっていくし、そしてそれはただそれなだけで。
こんなだから偉い、とか、こんなだからよろしくない、よか、年上だからこうしなきゃ、とかそんなんどうでも良い事です。

ただ自分であれば良い。
そして、その自分が出来る事を、したい事をやっていけば良い。
ただそれだけだったりしますもんね。

どうでも良い話ですが、ちなみに、僕は27歳だと思われてました。。。

そんな見た目27歳のアド山がお送りいたしています当ブログ。
なぜか時間切れとなりまして、また更新したいと思います。


←みんな英語しゃべるの早すぎるっていってんでしょーがっ!!聴き取れねーよっ!!  

Posted by アド山 at 22:56Comments(0)イタリア滞在記

2012年11月15日

するのは誰?

「自我」さんがいる。
自分を自分だと認識しているそれですね。それが在るが故に自分が自分だと認識出来るんですけどね・・・。

自我さんは、頑張っている。

いろんな事を自分でしていると思っているし、こんな自分ではだめだ、自分には足りない物がいっぱい在る、だからもっともっと頑張らないと・・・・と、エールを送ってくるし、
何気に満足感を覚えても、あの人と比べてごらん、全然努力が足りないよ。ほら、こっちよりもあっちの方が良いでしょ?って、ずっと満足感を与えてくれない。
そして、たくさんの、〜すべき、を与えてくれる・・・。

そんな自我さんはなぜ頑張るのか?
多分、そうしていないと死んでしまうのだ。
だから、ほんの一瞬も休まる事無く働き続けている。


自我が死ぬ時は、肉体が「死」という物を迎えたとき。
この時に宿る肉体を失った時、その自我も消滅する。


だけど、生きながらにして死ぬ時が在る。

「私はいない」という体験。

そこに自我は存在しない。だから自分がいなくなる。すなわち、自我の消滅・・・自我の「死」でもある。





だけどね・・・・



自我が消滅したその瞬間も世界はそのままに、あるがままに存在している。
ま、すぐに自我さんは帰ってきますけどねっ!


そしてその時に気が付くんだ。

すべては勝手に起こっているって事を。


自分がしている、って言うのは「自我」がもたらす幻想だったってこと。
だって、私は消えても、世界はそのままに存在を続けているんだから。だから、自分が何かをしているって言うのは幻想以外の何者でもない。


ハイヤーセルフ、って在るじゃないですか?
僕はあっても無くても良いと思うんですけど、これが在るとすると感覚的に分かり易かった。

起こる事は、する事はすべてハイヤーセルフさんの仕事です。
それは自我さんの仕事ではありません。でもそうしているから何かとこんがらがって来るようです。
ハイヤーさんに任せてしまった方が良いようです。サレンダー、と言われる状態です。

自我さんには自我さんの仕事があります。自我さんはエネルギー使いですから、それに専念してもらった方が良い様なんです。

ハイヤーさんと自我さんの二人三脚、まさに仏と私。
それは分離じゃないかとか思ったりしない事は無いのですが、理解としては何となく分かり易い気がしたんですが、いかがな物でしょうか?

何にしても、するのは私ではありません。



←ハイヤーさんって書くと、白い手袋しているってイメージですよね・・・。  

Posted by アド山 at 06:19Comments(0)気付いた事

2012年11月14日

事は起きている

どうしてだろう?

書きかけていた記事が一気に消滅した。

どうしてだろう?

一体何をしたんだろう??


うん、記事が消えただけです。
ついでに、記事を書く気力も無くなっただけです。



でね、面白いもので、僕たちは起こる色々な事に意味付けをします。
こういうことはきっとこうだったら起こったに違いない、とか、こういう事があったからこれはきっとこういう事があるからなんだ、とか。
別に思うのは悪い事ではないので自由なんですけど(汗)


意味を持たせれば意味があるし、意味を持たせなければ意味が無い。
事自体には何の意味もありません。それはただそうであるだけです。


良い「事」も無ければ悪い「事」も無い。良いと「思う事」があり、悪いと「思う事」がある。
それはそれぞれに受け取る人の裁量。その人の価値観。それ以上でもそれ以下でもない。
だから、物事の善し悪しを論じる事は、実は全く意味がない。
自分にとっていいと思った事が相手の人にはそうではなかった。それを残念に思ってしまったり、その事からこの人こんな人なんだ、って裁いてしまったり、そんな事が当たり前にあるけど、行き過ぎると喧嘩になるしね。。

まぁ、あれです。僕もしょっちゅうやってますけど(汗)


まぁ、あれです。
一番の大きな誤解は、自分の外に自分以外の人がいて、その外側の人にどうにか働きかける事が出来る、って事かもしれません。

もっと言えば、
世界があって自分がそこにいる、では無くて、自分という存在を通して世界が映し出されているってことです。
実は順番が逆だったりします。
そこにあるものを見ているのではないのです。自分が見るからそこに現れるんです。

だから、外の世界に振り回されている感じなんですけど、実は、そうしようとしてそうしているのでそういう世界が出来上がっている、っていうのが本当の所のようです。


さらに科学的に電波を飛ばすとですね



世の中のすべてのものは素粒子で出来ています。何も無いと思う空間も素粒子で満たされた空間です。ドット絵で考えると分かり易いです。
何も無い所にもドットは存在しています。光っていないだけです。光っていても無くてもドットは存在します。
光っている時に、そこにそれが在ると、そういう風に思いますけど、光っているという状態であって、ドットは光っていても光っていなくても変わらずに存在しています。それが世の中で、そこに何を出現されるかは見る人の意思が決めます。

・・・・・これね、科学の話です。。。

で、さらに言えば、素粒子とはエネルギーです。
そう言う意味では、世の中はエネルギーで出来ていて、そして、その根源はすべて同じ物になります。
そのエネルギー、素粒子に意思が在るとすれば、それはまさにワンネス、と呼ばれるすべては大いなる一つの物、という概念に到達するんじゃないんですかね・・・。よく分からないけど・・・・。(汗)

だらだらと書いていたら、何だか分け分かんない話になりましたけど

いつも分け分かんない話だから、まぁ、気が付けばいつもと一緒ですねっ!!


で、書きながら気が付いた事は、自分だと思うこれ。「自我」ですね。この存在が一番のオカルトではないのかな?ってことで。



←書き上げて気が付いたんですけど、最初書こうとしていた事と内容が違う・・。ま、読む人からすればどうでも良い事なんですけどねっ!!  

Posted by アド山 at 06:17Comments(0)気付いた事

2012年11月13日

求めない方が良い

幸せの話をしたけれども、幸せは求めない。
求めた時点で、そこに、無い、って事になる。

幸せがそこにあるのなら、幸せを感じようとする。

すなわち、やっぱりそこに無い、という事を自分で作っちゃう。


思考が仕掛ける罠みたいなもの。


動いたら、離れちゃうんだ。
面白い仕掛けだな、って思う。


幸せだという事は、不幸ではない、って事。
何かを持って幸せの定義をした瞬間に、幸せはほら、鰻のようにするするっと逃げていく。(苦笑



でもね、幸せが逃げているんじゃなくて、自分が離しているの。自分から遠ざかっていっているの、わざわざ。

ほら、何だかもどかしいでしょ?
動けば、動こうとすればするほどに、求めれば、求めようとすればするほどに。

あぁ、じれったい!!


だけどね、

ずっと自信のある人はいない。
でもずっと自信がない、という事が無い人は、きっと自信があるように見えるんだろうね。


ずっと幸せな人はいない。
でもずっと不幸せだ、という事を感じない人はきっと幸せであるように見えるんだろうね。


ジタバタすると逃げちゃう、っていうか自分が離れていっちゃう。
とりあえず、動くのを止めてみましょうか?

息を大きく吸って、吐いて・・・。
目を閉じて、耳を澄まして・・・・。自分の呼吸を感じて。
ただそこに座っている時間をちょっとだけ自分にプレゼントしてあげませんか?

考えは止まらないですよ。(苦笑
止めようとすると止まらないから、リラックスして、考えを眺めるように。
音を聞く時も、いろんな音を思考は一生懸命に分析するから、まずはその事に気付いてみましょう。面白いですよ、思考って。
絶えずそんな風にしているから、微笑ましくみてあげてください。
リラックスして来たら、音は、ただの音として聞いてください。思考が湧いて来たら、ただ湧いて来た事に気が付いてください。

ただあるがままに。

究極のリラックスタイムです。


←時間があったからもう一つ書いてみた。  

Posted by アド山 at 06:29Comments(0)気付いた事

2012年11月13日

条件はいらない

ニコルとキャンシーが次のファームへと旅立ちました。
今回のコジモのステイは人の巡り合わせが前よりも活発でとても面白い。



思わぬ再会とか、相変わらずずっと一緒にいるキャリーとか、本当に不思議。
相変わらず英語でそんなにしゃべれる訳じゃないんだけど、だけど、ずっと笑顔でリラックスしているせいかな?
何だかみんなとっても楽しそうに見える。

最初訪れた時の、ずっと共にあったあの何とも言えない緊張感は今はどこにもない。
そりゃそうだ、自分が作り出していたんだから。





幸せになりたいと思う。

お金が欲しいのも、恋人が欲しいのも、良い車が欲しいのも、自分の家が欲しいのも、多分幸せになりたいからなんだと思う。
でも、実は幸せには条件がない。
これ、本当の事。


幸せだ、と思ったら、それが幸せ。条件でも何でもない。


何かを得て幸せになるんじゃなくて、幸せであるからその幸せをどんどん現象化していく。
それが本来の幸せの姿であるようです。


だけど、面白いもので、外に何かがあって、それが幸せをもたらしてくれるって信じゃちゃったから・・・・
そしてね、幸せになりたいのならその幸せにフォーカスすれば良いのに、お金とか恋人とか、車とか家とかその為の手段でしょ?僕たちはどうしてもそれにフォーカスしてしまって、そして、それがないから幸せじゃないって、そんな風に思っちゃう。

そうなんだよね、自分で幸せじゃないって思っちゃう。


だから、幸せだけにフォーカスしちゃえば良い。


え?
難しいって?

ほら、難しいって決めてる。(笑


でも、難しいって言っているのは誰だろ?
それは自分ですか?
違いますよ。それは自分ではなくて、考えです。思考です。
それは浮かんでは消えていくものです。ずっと今にあるものじゃないんです。
だからね、それは自分じゃない。だから、手放す事が出来ます。

手放すって言うと分かりにくいかもしれないけど、そうですね、それがそこにある事にただ気が付いている感じですかね。
あぁ、難しいって思っているなぁ、って。
その考えを客観的にみている、って言うとちょっと分かり易いかもしれないですね。
客観的にみているから、考えは空にかかる雲のように形を変えながらやがて消えていきます。それがわかったときに、あぁ、それは自分じゃないって気が付きますよ、多分・・。
本当の自分は、考えじゃなくて、客観的にみているそれですから。
で、それはどこか違う所にあるんじゃなくて、まさにそれなんですよ。ほら、同じものですよ。

欲求は考えです。
だから、フワフワとほら、遊ばせておきましょうか。
そうしなきゃ!!って言うゲームを始めても全然良いですよ。だって、それって、みんな夢中になってしまう面白くて難易度の高いゲームみたいなものですから。

何でも好きなように出来ます。
そういうもののようです。


←ただ、僕はゲームの敗者だったりしますけどねっ!!  

Posted by アド山 at 03:27Comments(0)気付いた事

2012年11月11日

すべて自分が決めている。

外側に世界があって、そこに孤独な存在として自分が存在している。
世界から自分を守らないといけない。

だって、たくさんの脅威がある。

幸せも、不幸も、愛しい人も憎たらしい人も、全部外にいると思う。
だから、守ってくれるものがあれば安心するし、なければ不安でどうしようもない。

もっと頑張らないと、もっと努力しないと、そんなだからだめなんだ、そんな声が聞こえてくる。



もっともっと頑張らないと。
だから、頑張らない人を心の中で裁いたりもする。
だから、頑張れない自分も、心の中で裁いている。


行くつく所は・・・・、それが鬱なのかもしれないですね。



だけど、世界ってずっとそういうものだと思って来たけど、けど、実は全然違っていた。
どうしてもそうとしか思えないんだけど、でも、そうじゃない。


地球は丸い。地球が回るから、地球から見ると空が動いているように見える。(地動説)
地球は平たい。地球は動かない。天が動いているのだ。(天動説)



どっちを信じても、見えるものは一緒。
だから言ってしまえばどっちでも良い。

だけど、天動説を信じたら、地の果てがあるって思っちゃうから、遠くへ行こうとは思わないんだろうな。
宇宙に果てがないなんて、そんな事を思いもしないんだろうな・・・・。

別にどっちでも良い。
もし、今天動説を信じていたって、別に見えるものが変わる訳じゃない。
けど、地動説である事を知っていれば、知っているから、だから今の世界があるんだよね。

良いとか悪いじゃないんだよね。
究極の所、どうでも良いんだ。
だって、何がどうあってもそれはそれで何も変わらないから。


どうありたい?

見えるものを信じていれば良いのかな?
本当の事を知りたいと思うのかな?



ただ、一つだけポソッと言えば





全部自分が決めている。
現実は、自分の敵ではない。自分を守ろうとしちゃうけど、けど、本当は自分は現実それ自体だから。
だから、守ろうとするそれ自体も、自分でそう作り出しているって事で。


何とも言えない、ばかばかしいと言えばばかばかしい自作自演。


別にそれで困るってこともないけれど、困ってしまうほどに自分を追いつめてしまったら、やっぱりなんかばかばかしいよね。
気付いても気付かなくても、見えるものは何も変わらない。
だけどね、天動説を信じて、そして遠くへ行けないその心は、地動説に変わる事で自由になるんだろうね。

それを決めるもの、やっぱり自分なんだな・・。


←ちなみに、天動説を信じている人ってまだいるのかな・・・。  

Posted by アド山 at 06:33Comments(0)気付いた事

2012年11月10日

それが自分

他人はいない、すべて私。

もしくは

私はいない。


とか言われたりしますが・・・・・、あの瞬間、確かに私はいませんでした。
いや、厳密に言えば、私は存在しています。だって、いない、という事を認識するものがなければ、いない、という事を知る事がないのですから。
私はいない、という状態を認識しているのが本当の私で、今まで私だと思っていたものは実は私ではなかった。

という事なんですよね・・・・。


言葉にすれば何とも電波なんですけどね・・・・。



えーとですね、話がぶっ飛びますけど、というか、もう既に前回あたりから飛んでますけど


思考、頭で考える事、ならびに感情、これが自分だと思うんですよ。
だけど、自分ではなかったです。
自分ではないんですよ、という事は知識として知ってはいましたけど、ここまで腑に落ちればもうどうする事も出来ません。


私はいなかったです。
でも、確かに私は存在しています。
存在しているという感覚があって、その感覚を認識しているものがあります。

認識するものがなければ、その感覚は認識出来ません。

じゃ、その認識しているものって何だ?って話なんですが・・・・



言ってしまえば、同じものです。
それです。
それでは分からないのですが、それです、としか言い様がなかったりします。

つまりはそれです。
それが私です。

それが腑に落ちました。

なんだ、最初っから全部そこにあったじゃないか、と。
探していたものは、本当の自分って、全くのゼロ距離でそこにあったじゃないかって。



だから、言ってしまえば、本当に自分自身にくつろぐ事が出来ています。
だって、揺るぎないものがちゃんとあり続けていたって事を体感として知ったから。
体感として知らなくても、そうである事は知っていました。だけど、体感して、初めて腑に落とせました。
僕の場合は、ですけどね。。


だから、今凄く活き活きとしている自分を感じます。


こんなにも違うものかな、と。
だけど、特別な事な自分になった訳じゃないんです。
やっぱり言われるようにその逆で、自分がそのままの自分になった、という事でした。

言葉は難しいですね。
なかなか上手く表現出来ませんが、そう言う事でした。


←でもね、今からが新しいスタートなんですよね。  

Posted by アド山 at 07:52Comments(0)気付いた事

2012年11月09日

そのままでいい

すべてはそのままでオッケー。

でも、そうじゃない。これはもっとこうじゃないと、こうあるべきなんじゃないの?もっと頑張ってこうしないと・・・、そんな声がひっきりなしに聞こえて来て、いつまでたっても自分らしい自分になれない。
幸せになれない気がする。


って思っちゃうんですよね。




だから、そんな声に耳を傾けちゃいけない。
そんな声は無視してしまえば良い。
だけど、どうしても無視出来ないから・・・、だからいつの間にかそんな自分も責めてみたり。




だけどね、

自分らしい自分って何だろう?


自分らしくない自分って何だろう?


自分が自分でなかったときってあったっけ??



あれ?



これがあれば、もっとこうだったら・・・



うん、確かにそう思うけど、確かに今それは無いかもしれないけど

どうしてそれが幸せでない条件になるんだろ?



え?
それは誰が決めたの?
そういう決まり?




なんかおかしくない?




だからね、全部それでいいんだよ。
ただそれだけの事。
それが腑に落ちた時に、な〜んだ、これだけの事だったんだ、って、ありとあらゆる事に深刻になる自分を笑いたくなる。


それがない事を求めるってことは、それがあるって事を認める事。
それがあるように求めるってことは、それがないって事を認める事。


だからね、どっちでも同じ事なんだよね。


スタートとゴールは同じ所。
求めても、求めなくても、実は同じ事。
求めても良いし、求めなくても良い。ただ、そうでなきゃ行けない、って思ってしまったら、それはそれでも好いんだけど、苦しかったりするんだよね。でもね、その苦しさもね、実は感じたくて感じているんだよ、全然気が付かないけど。

気が付いても、気が付かなくても実は全く同じ。


だから、リラックス。
そのままでいましょうか。



←ニコルを少々怒らせたようです。。。相変わらず女性の扱いが下手でございます。。(苦笑  

Posted by アド山 at 21:43Comments(0)気付いた事

2012年11月09日

思い込み

本当に思うんですけどね・・・

こうでなければいけない、とか

きっとこうなんだろうな、っていうのが僕は強いんですよね。


そう、思い込みって奴。後者は妄想ですね。



これがあるから、いろんな事を思い煩うんだよね。
いろんな事を判断しちゃうんだよね。


だから、疲れたら、放り出せば良いのにね。


でもね、そんな事したら、大変な事になっちゃうって、そんな思い込みの声が聞こえるんだよね。(笑)



一体君は何を知っているんだと言うんだい?




僕が知っている事はただ一つだけ。
今、目の前で起きている事。それだけがリアルにいまここにあるってこと。
それ以外の事は実は何も知らなかったって事を知った。


5秒後の事は5秒後に分かるよ。
1分前の事覚えているけど、もうどこにもないよ。
今、僕はPCを打ち込んでいる。それだけの話。いろんな音も聞こえる。
なんか、まだ悩んだりしているみたいで、頭が動いているけれど(苦笑)、だけど、どこを探しても、そんなものは存在はしていないんだよね。ふっと消えちゃう時もあれば、苦しみをもたらす時もある。


こうしなきゃ、ああしなきゃ
こうじゃないの?ああなんじゃないの?


君は一体何を知っているんだ?


知っていると勘違いしているから、その勘違いがあるから、人を裁いたり、自分が苦しんだりするのかもしれないね。




思い込みは、勘違いなんだよね。



←捕まったり離れたり・・・・。  

Posted by アド山 at 02:53Comments(0)気付いた事

2012年11月08日

あるがままでした

なんかね、とりあえず、新しいカテゴリーを作ってみました。
なんかね、あれこれアヤシゲな話もいっぱい書いて来たんだけど(汗)、こっちの方が良いかな・・・・。

ま、どうでも良いんですけどねっ!!



前回の記事のせいかな、何やら心配をおかけしているみたいなんですが(汗)、あれです、大丈夫です。。
あれってなんだ?って感じで、こういう言い回しが出来て何となく焦点をぼかせる日本語って好きです。

そういえば、今もイタリア語よりも英語な生活ですが(汗)、あれですね、言葉の数とか大して増えていないんですけど、ただ、感情と言葉がリンクするようになってきました。
久しぶりに再会したPaulineが「TAKA、英語上達してるね!」って言ってくれたけど、上達も何も、相変わらずめちゃめちゃな英語ですよ。ただ、上手くしゃべらなきゃ、とか、相手のいう事を理解しなきゃ、とか、そういう気持ちがいい案配に抜けちゃっているので、なんかえらく普通に感情とともにしゃべっているだけなんですよね。
だから、言葉って・・・、あれですよ。(←

そんな事を思いつつ


そうそう、タイトルなんですけどね、ほんの一瞬、面白い出来事がありました。


オリーブの収穫が終わって、畑からハウスに戻る途中、カンティーナを通るんですが、何やらトラブルがあったみたいなんですよ。
その日は、シロッコが吹き荒れる、天気は良いんだけどめちゃめちゃ強風、うん、台風並みかも知んない、な日でテントが飛んじゃったんですね。かなり大きな奴です。



そうそう、この後開放樹脂漕に落下して肋2本ひび入れちゃうんですよね〜。
今はもう完治しておりますが。。
ではなくて、この背景(?)にあるテントですね。
ちなみに落下した時は、素足に樹脂製のスリッパじゃなくて、何だ、日本でも良く売ってるあれ、穴がボコンボコあいている奴・・・、何だ、日本語が出来るのに全然説明出来ないぞ(汗)、それだったんで、パワーを受け止めきれずにちょいと滑ったんですね。で、すぐに手を伸ばしたんだけど、このテントの骨組み、ではなくて生地をつかんでしまい、さらに、マジックテープの所だったんでそのまま何も出来ずに落下をたどったというね・・・・、あれだ、落ちるべくして落ちてるわ・・・。

ま、良いんですけどね。。。

で、そのテントが強風でやられちゃったんですよ。骨は折れとるはひしゃげてるわ、結構飛ばされているわで。

で、こちらもちょっと疲れていたんですけど、まぁ、手伝いますよね。
で、その時は、何だか大変なことが起きてるなぁ〜、とか思っていたんですよ。めんどくさいも入っていたかもしれませんけど。。

けど、ある一瞬、やっぱりそれが抜けたんですよ。

目の前にあるのは、大変な事でもなければ、めんどくさい事でもなくて、ただあるがまま。
みんなが何やらやっているっていう、それだけ。ただ、それが起きているの。

もう、これ感覚の話なんですけど、なんだろ、あれ・・・。


シャワーの時とおんなじなんですよね。
めちゃめちゃクリアなんですけど、ただそれだけの事がただそこにあるんです。


で、すぐに気が付いたんですよね。

なんだ、勝手に意味をつけているだけじゃないかって。
大変な事じゃないんですよ、目の前で起きている事は。大変だという色を僕が付けているだけ。
めんどくさい事でもないんですよ。僕がそういう色を付けるからそういう風に見えるだけなんだなぁ〜って。





大変だ、とか、苦しい、とか、そんな状況ってあります。僕もたくさんありましたし、おそらくこれからもそうなんじゃないかって思っていました。
言える事はただ一つである事は分かりました。


状況はただあるがままにそのままに存在するだけ。


ちょっと面白い体験でした。


←風邪には早めのパブロン!!って、パブロンじゃなくても良かったよ、ロッペーちゃん!!  

Posted by アド山 at 04:09Comments(0)気付いた事

2012年11月06日

という事で、悩み中・・

さて、という事で、何かと仕切り直・・・、しても良いし、直さなくても良いんですけどね。。
さてどうしようかな、と、おそらくこのブログを読む人からすればどうでも良い事を一人思案中でございます。


タイトルね・・・・。

けど、なんだろうな、料理の事で何かと思う事もあるんですよ。

だから、まだしばらくはシェフのひとりごとなのかな?(って誰に聞いてるの??
「元」つけた方が良いのかなって?そんな事も考えなくはない。。


それと、アヤシゲ倶楽部、ってカテも・・・、アヤシゲじゃないんですよね・・・。
けど、他になんか良い言い回しが思いつきませんの。。
何かありませんかね?


で、ブログの方向性とかもね。


その前に人生の方向性が大事なんだけどっ!!

う〜ん、これも困ったな・・・。

方向性がない、という事が方向性になりそうな予感がひしひしとするんですよね。(汗)
だってね・・・・

何かをする力は何一つ残っちゃいないもん!!

事情を良く知る人には良く理解出来る一文ですが、そうでない人には今ひとつピンとこないかもしれませんが、まぁ、あれです。

やりたいとか、したいとか、こうしますとか・・・

なんて言うのかな・・・、これ、上手く言葉にできません。
出来ない事はないんですが、それぞれの受け取り方がね・・・、言葉は持っているんですけど、多分、伝わる人は少ないかな、ってそう思っちゃうので今は言葉を出さない方が良いのかな?と思うので・・・・。


そんなこんなで、イタリアでも色々と料理は作っていますけど、色々と思うんですよね・・・。



美味しい

美味しいってなんだろ?


ずっと疑問に思っていた事ですよ。

ある意味答えは出ました。出たら、もうどうする事も出来なくなりました。(汗)
なんて言うんですかね・・・・・


ぶっちゃけ、それぞれがそれぞれなんで。それ以外にはないので。。

もちろん、色々とありますよ。料理をする上での云々とか、野菜の火の入れ方とか・・・、こっちで作る時も限られた条件でやっていますけど、それでもやっぱり考えながらつくって、そしてみんなが美味しいと言ってくれてもりもり食べる姿を見るのは何とも嬉しいものですもん。

ただね・・・・


ただ、自分の中にもう拘り、ってのがないんですよね。

もうね、吃驚するくらい。
いや、拘りはあるんですよ。情熱もある。
だけど、なんというのかな・・・、そこにフォーカスがいかない感じなんですよね。

あ、だめだ。(汗)
言葉が全然捉えられてない・・・・。(涙


これまた上手く言えないな・・・・。
だけどね、明らかにいえるのは、フォーカスする所が大きくシフトした様な気がしています。
うわっ、言葉にすると全然説明出来ていない。(滝汗


だけど、思うのは、それぞれにそれぞれの楽しみ方があって、それはそれぞれにそれぞれの好き好きで、でね、リラックスしてそれぞれが楽しめたら良いね、って。
だから、僕は誰かの為に料理を作るのではないんだなって。
誰かの為に作っているんですよ。でも、そうじゃなくて・・・、でも、それはきっと今までも気付かなかったけど、ずっとそうだったんだよなぁって。。
まずは、それが前提なんだろうなって。

だから、今は比較しようとも思わないし、比較されたいとも思わない。

だって、僕のそれはそれだもの。あの人のそれはそれだもの。そこに優劣はないし、好き好きはあるけど、それでしかないし、別にそれが語られたりするのは勝手なのでどうでも良いといえばどうでも良い事なんだけど、ただ、自分が情熱を持ってどうしたい?って話で。


まだ答えがないの。(涙
さらに言っている事が全然分け分かんないの。。(涙


ということで、何やら悩んでいるよって、そんなお話からスタートでした。

スタートからふにゃふにゃしてますなぁ・・・。


←ふにゃふにゃしながら押してみてください。きっと何かが伝わりますっ!?  

Posted by アド山 at 06:40Comments(0)アヤシゲ倶楽部

2012年11月06日

こう、なんて言うのかな・・

ずいぶんと過疎ってしまいました当ブログ。

何だかね、ずいぶんと頭の中がごちゃごちゃして、全然書く気にならなかったんですよ。。。
もうね、本当に頭の中のストーリーにずいぶんとエネルギーを吸われちゃったな、ってな感じです。


ちなみにちゃんと生きているんですけどね。。



Caryが撮った夕日。見事です、見事すぎます。見たとき以上に美しい写真です。きっと心が綺麗なんでしょう。。




思考は割れた鏡、なんて言い方をする方もいらっしゃいますけど、まさにそうなんですよね。



ちなみに、思考、とか言葉を当てちゃうと何だかかしこまっちゃう(?)んですが、要は頭の中で考える事ですね、思考って。
ちなみに、頭の中では本当は考えられないんですけど、頭の中は脳みそなんで、脳みそは別に考えている訳ではないので(汗)、頭の中の考え事を思考ですよ、って言うと分かり易いんですけどね、ま、そんなこんなで頭の中がもうねぐちゃぐちゃだったんですよ。

原因はあれなんで内緒なんですが・・、まぁ、相変わらずこりもせずに・・・・。
若干呆れつつも、どうしてこうも恐れを抱くというか、まぁ、状況から察するにそう考えるのが妥当と言えば妥当で、それは非常に受け入れ難くて、だけど、他にどうする事も出来ないでしょ、ってな案配で。
まぁ、あれです、どうする事も出来ませんから、頭の中が本当に騒がしいんですよ。。



受け入れるの受け入れないの、決まった訳じゃないの、そう思うからそういう現実を引き寄せちゃうだの、もうね、割れた鏡そのもの。(笑)


そしたら、突然スコーンと、思考が全部抜けちゃったんですね。


もうね、吃驚するくらい。


シャワーを浴びていたんですけど、もうね、何だかもやもやしたままシャワーを浴びていたら、いきなりスコーンと、シャワーを浴びている、だけになってしまったんです。
頭の中に色々な考え事を持っていましたけど、現実はね、シャワーを浴びているだけ。

本当にただそれだけ。

あれほど頭を悩めていたものは、どこにも存在していなかった。。


はっとさせられました。

もうね、吃驚したんです。


だって、シャワーしてるだけなんですよ、現実は。
あれやこれや、本当に頭がうわーってなくらいになっていたんだけど、言うなれば全部幻想なんですよ。
もう見事なぐらいに。
考えている事って、全部幻想なんですよ。
自分が考えてるって思うじゃないですか。これ、全部幻想です。



まだ、ちょっと吃驚しているんですけど(苦笑)、だから、そのあれでこうでって頭を悩ませている問題も今はやっぱり幻想なんですよね。
幻想ってことは、存在していないってことですよ。
だから、一体何をされているんですか?って言うくらいに、本当は何もない。本当に何もない。
だけお、あると感じるんですよ。というか、それが本当だと思っちゃうんですよね。


という事で、ブログを書いたり、何かをしたり、でもやっぱりあーなんじゃなかろうかと落ち込んでみたりの毎日が再開した訳です。


ま、あれだ。
なるようになるのさ。


←さて、このブログは一体どこへ向かうのでしょうね?  

Posted by アド山 at 05:24Comments(0)アヤシゲ倶楽部

2012年11月01日

なんだかなぁ・・

すっかり更新が滞ってしまっていますが、結構長い放置ですね。。

何やらここしばらくバタバタというか、心理的に非常に落ち着かないというか、困ったというか、何もなかったと言えば何もなかったのですが、まぁ、なんですかね、独り相撲を一生懸命に取っておりました。


何言ってるか分かんない??



うん、そう思います。


サンマルティーノというオリーブ農家さんを離れてから、どうするのか、どうにもこうにも定まらず、その中で、色々と思う事も多かったのですが、まぁ、とりあえず、滞在は続いております。

イタリアも急に寒くなってきました。
今日はさすがに風邪を引いてしまいそうな・・・・。


ノベッロ解禁も近いですね〜。

イタリアでは盛り上がっているのかどうか?
って事がレポート出来るほど、そんなに街の中にいる訳じゃないんですよね。基本がWWOOFerですから。
しかも、コジモも、ノベッロとか作る作り手じゃないしね。

スーパーとか行けばかなり安い値段で売られるのは知っていますけど、まぁ、歩いて30分・・・、そこまでして買いにいくのかと言えば・・・、買いにいきませんわね。
何か街に降りる都合があって、そのとき何か買い物をして、さらにその時にノベッロが売っていたら買ってみようかと思います。

ということで、徒然に書き始めては見たものの、あまり内容がないようでして・・・・。←
書く内容がない時は書かぬがよろし、なんですけどね。


  

Posted by アド山 at 02:19Comments(0)イタリア滞在記